使い捨てに終わらない 時代を超えた価値

10/21(金) 今日も張り切って書いてみる。目に留まったかた、リアクション頂ければ幸いです!

我々が価値を見出してきたもの~古典から探ってみる①~

 さて、前回は縄文土器を例に我々は能力(機能)のみに価値を認めてきた訳ではなさそうだ、ということを確認した。では他に何に価値を見出してきたのか?
 ここでは我々が歳月をかけ、「語り継ぎ」という、一人一人としては微細な、しかし総量としては膨大なコストをかけてきた古典作品から確認していきたい。

 まず我々は発見、そして発見者に大いなる敬意を感じ、すなわち価値を見出してきたのではないか。

清少納言・いらすとやさんより

春はあけぼの 
やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明かりて
紫立ちたる雲の 細くたなびきたる

夏は夜…

あまりに有名なこのフレーズ。学校などで暗唱させられた人も多いのではないか。中には「いや、まぁ確かに春の夜明けとか蛍とか良いよね。でもそんなの普通よね。それ言ったからって千年に残る名言、有名人になるっていうのもなぁ」と感じる向きも当然あると思う。

発見=見える化の功績

そうそれ!って瞬間 

ただ、日常の会話・あるいはお笑い番組などで「あ~そう!それっ!!」と感じる瞬間があるだろう。漠然と、あるいは無意識に感じていたことを言語化された瞬間の感覚ー

新たな美(価値)の発見者、という表現を見ることがある。発見、とは上手い言い方だと思う。0から1を生んだわけではない。もともとそこにあるものを見出すのが発見。
そう、清少納言とて、また印象派の画家たちとて0から美を創出したわけではない。多くの人がぼんやりと感じていた感覚に言葉や色彩、形状といった輪郭を与えたのだ。その瞬間、多くの人は思ったに違いない。

あーそう!それ!!それなんよ~

ぼんやり、のままでは共有されない。確かに美は存在していたが、それは他者との間で共有されえず、コミュニケーションツールとはなり得なかった。しかし、彼・彼女らの言語化・形状化により美は人々の間で共有され、語られ得るものとなったのだ。

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